15歳のある日、私は制服姿のまま、夜逃げをした。
家族に呼ばれ、学校を早退したあの日。
そのまま私は、もう二度とあの教室に戻ることはなかった。
東京から福岡へ——夜の新幹線。
父の会社が倒産し、私たちは一夜にしてすべてを捨てることになった。
中学、高校と少しずつ自分を好きになりはじめていた頃だった。
テニス部で次期部長に推薦され、やっと笑えるようになっていたのに。
その時間が、まるで嘘だったかのようにリセットされた。
あれから何十年経った今でも、ふと思うことがある。
「もし、あのままだったら、私はどんな人生を歩んでいたんだろう」と。
その後も、人生は決して穏やかではなかった。
息子が生まれた日のことを、私は今でもよく覚えている。
というより、忘れられないのは「彼に触れたほんの一瞬の感触」だけ。
先天性の疾患を抱えて生まれた彼は、泣く暇もなく救急搬送された。
小児病棟での付き添い入院。
何度も繰り返される入退院。
他のお母さんたちと励まし合いながらも、
どこかで「どうして私の子が」と思っていた。
でも、その日々が教えてくれたのは、
「命は理不尽でも、支え合いは温かい」ということ。
ありがとう、って言える場面が、思っていたよりも多かったこと。
たとえ涙ばかりの記憶でも、私を変えたのは、確かにこの時間だった。
30代、体の不調が心を追い越してきた。
めまい、動悸、息苦しさ——それは突然やってきて、
私をひとり、家の中に閉じ込めた。
パニック発作。
誰にも理解されず、誰にも説明できなかった。
「外で働くなんて、もう無理かもしれない」
そう諦めかけていたとき、ある仕事と出会った。
最初は恐る恐るだったけれど、気づけば18年半。
私はそこで、稼ぐ力と、誰かに必要とされる感覚を取り戻した。
社会復帰なんて大げさに聞こえるかもしれないけど、
私にはそれが、人生の「生き直し」だった。
そして——
50歳を過ぎたある日、私はドラムと出会った。
きっかけは「推し」。
彼らと同じ景色が見てみたい。
それだけの理由だった。
最初は誰にも言えなかった。
主婦がドラムなんて…と笑われそうで。
でも、スティックを握った瞬間、何かが変わった。
初めて推しの曲を叩けたとき、涙が止まらなかった。
あのときの景色は、人生で一番“今ここ”にいた時間だった。
気づけば仲間ができ、主婦バンドを組み、
夢だった場所でライブもした。
「やってみたら意外とできた」って、私にも言える日がきた。
私が50歳でドラムを始めたときの体験を詳しく綴った記事はこちらです。
→ 大人になってから始めるドラムは最高の趣味になる!7つの訳とは
そんな私が、最後に選んだ決断は——
18年半続けた仕事を辞めるということ。
安定、慣れた場所、保証。
それらをすべて手放すには、やっぱり勇気がいった。
でも同時に、「このままじゃダメだ」と強く思った。
やりたいことに挑戦できる“最後のチャンスかもしれない”。
そう思ったとき、私は迷わず歩き出していた。
「安定よりも、自分の人生を選んだ」——同じような想いを抱えている方に向けた記事も書いています。
→ 50代で会社を辞めた私が、フリーランスを選んだ理由
あの夜逃げから、ずいぶん遠くに来た。
でもあの日の私がいたから、今の私がいる。
人生は、決して一直線ではない。
むしろ、ぐちゃぐちゃに曲がって、泣いて、止まって——
それでもまた進むものだと思う。
もし、これを読んでいるあなたが「もう遅い」と思っていたなら、
それは、今日が“転機”になるサインかもしれない。
人生は、何度でも書き直せる。
私たちはその証拠になれる。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
これは、私自身に送る「Re:わたし」という返信の物語。
そして、あなたの中にもきっとあるはずの、
「もう一度始めたい」気持ちに寄り添えたなら嬉しいです。